Home

大日貴

真夏の昼のハイダウェイ

合田佐和子のオブジェ

荻田浩一『ハイダウェイ』@シアターエートーは、素材を選んでいい腕できっちり料理された一皿で、味もコストパフォーマンスも良い、ちょっと珍しいし食べて満足なんですが一皿でいいや、と思いました。一皿食べおわる頃には「ふう」という気持ちになる。わくわくもドキドキもしなかった。それは料理のせいではなくて私の嗜好と体調のせいである。なので料理はほぼ素晴らしい。

(話は違うけど、HKTのニューシングルおよびMVを見た私の気持ちは「カールのチーズ味をたべて妙におなかいっぱいになった気分」か。私はカールはカレー味が好きなんで、チーズは「キライじゃないが……まずくはないが……」というものなのだ)
(このシングル出て見て思うのは「5点リードされてて6回裏に1点返した」感じ。意気盛んとまではならない。あと3回で失点おさえ逆転ができるのか)

こんなに仕込みに手間がかけられたちゃんとした美味しい料理って、OSKにはほとんどなかったので、そのことには「すげえ」「ありがたい」という気持ちが強い。荻田先生ありがとう。
同時に「じゃあ今まで見せられてた他の作品て何だったんだよ」とも思う。レビューカフェは仕方ないとしても(ほんとは仕方なくない)、これぐらいのことはできないものか。……できないかもなあ。私も『ハイダウェイ』の箱書きまでは書けたとして、音楽と装置と照明を用意することはできんもんなあ。でも、他の先生がたは音楽家も美術家も知ってるはずだが、ハテ。

私は『ハイダウェイ』見ながら13年前にOSKで上演されました『クラブ・タキシード(ClubTUXEDO)』という作品を思い出していました。ちらっとだけ似た場面があったので。パクリとかそんなんではありませんよ(そんなこと言ったら物笑いの種になる)。世界館という小さな劇場でやった、駄作というか珍作というか、見どころといえば「男役のトップ二番手が出ただけ」というダメ作品だったんですけど、今思うにあれ、構想段階では頭の中に『ハイダウェイ』みたいなものが広がってたんだろうなあ……とモノガナシイ気持ちになります。能力資力の圧倒的足りなさ。

以下さみだれ感想。

・水妖の場面だけど、あれは男のほうが女を助けきらずに自分だけつい生き残っちゃったわけでヘタレの腰抜けの卑怯者。その哀しさが出たら泣けた。ただの悲劇だと悲しいだけ。哀しいのが胸を打つ。

・だからあそこは翼が歌っている「あの風は彼女の囁き」で終わりにしとけばよかったなー私としては。その後の「水底に沈んだ硝子の欠片で自分の腕に彼女の名前を刻んでその流れる血で云々」は蛇足。ヘタレ男がなにかっこつけてんだよ、となる。せっかくきれいに終わったと思ったのにー。

・場面ひとつがガラスでできてて継ぎ目が溶け合ってるような、そういう構造の作品なんですね。だから、「どこが中詰めで」とかそういう概念はない。けれどやはり自ずと密度の濃いというか濃度が高いというかそういう場面はある。それが「船、歌う水妖」に「庭園」に「画廊」の3つかと思うんですよ。いちばん意味あいが打ち出されてる場面。で、その濃いやつ3つが私としてはどうもあんまり好みじゃなかった。どっかで見たような気がしたし。歌劇における通俗とでもいいますか。とくに薔薇の精なー。

・最初に薔薇の精が出るって聞いたときはただちにニジンスキーのアレ↓

ニジンスキー

を思い出し、翼がやるなら似合うかも!と思ったけどさすがにアレはなかろう、ならもっと思いもかけぬすごい薔薇の精が……オギーだし! と期待したもんで、壁から出てきた時にはがっかりしちゃいました。

・濃い目の場面をつなぐとろけたガラスの部分のほうが見事だと思った。「列車の中にて」、が私はいちばん好きだったかも。しかしもうちょっとマシな衣装着せてやろうよ列車の客2人。……あんまり気にならなかったとはいえよく見れば「いつものOSKのダサ衣装」は各所に現れていたのでした。それをそれほど気にさせなかったというのはやはりこの作品はすごい!

・「画廊」で麗羅さんに映し出される映像の有り様がどっかで見たことある……と思って今思い出した。山岸凉子の『悪夢』に出てくる一コマ。あっちはおっさんでしたが。

山岸凉子のアレ

・荻田作品て合田佐和子みたい(最初に載っけた画像は合田佐和子のオブジェです)。気持ち悪さと可笑しさとかっこよさがとろけて固まったような。なら嫌いなわけないんだけどなあ。城月さんの肖像を合田佐和子に描いてもらってそれをポスターにしたらどんなに素敵でしょうか。で、内容はグロテスクで可笑しいようなやつで。

合田佐和子の油絵

・出演者はよくやった。でもこれぐらいはやって当然という気もする。別に驚かなかった。私が「あ、これはいいな」と思ったのは華月が赤いドレスで歌ったソロ。可愛かった。
・そしてこれぐらいの完成度の作品が「最低限」であってほしいと思います。

春のおどりの洋舞を見て考えた

この洋舞は、最初に見た時の印象が「つまんねーなー」だった。すべて終わった今となっては「すみません一徳先生、もっとつまんないものは山ほどあります」と反省しています。中村一徳先生の作品というと、2005年春、2008年春、2010年春、と3つ見ていて、どれも構成はハンで押したように同じ!という驚くべき作風でして、しかし同じだからダメってことではなくてそれは「型」であり、型をつくるパーツの良し悪しですべて決まるっていうんでしょうか。で、今まで必ず一つは「すげえ、ダンスでこういう表現があるんだ!」と衝撃を受ける場面があったのでよかったのです。ほんとに驚いたもん2005春の『カジノ』とか。男がカジノで勝負する場面、といわれて「スーツの男たちが上下に分かれて勝負しあう」というのはよくあるパターンですがこの『カジノ』はスーツの男が勝負するのは「勝負の女神」(いや実際は「ジョーカー」という名のカッコイイお兄ちゃん)とディーラーで、ルーレットやってるんだけど丸くもなきゃくるくるも回らない、ただ賭ける男と、ディーラーとジョーカーとチップのダンスでカジノのルーレットなの(こんな書き方でわかるだろうか)。

ダンスのOSKとよく言われる。しかし、群舞の場面は多いがそれほど揃っているわけでもない。共産圏の軍事パレードの揃い方には遥か遠い。共産党的揃い方は気持ちが悪いとよく言われるが、それならOSKの群舞が揃っているのが良しとされるのはなぜだ。それほど揃ってないから共産圏みたいに気持ち悪くないけど、まあまあ揃っているので良いってこと?(そりゃおかしい)……共産圏とかいうから話が複雑になる。アメリカのミュージカル映画だってばっちり揃ってた(映画だからか?)。OSKが宝塚よりもプロであり揃ってるというなら(そう言う人は多い)、もっとできてる団体とも比べられるのも当然の仕儀。…………って、話がそれたけど、OSKはダンス場面は一生懸命やっているけど、それだけでは私は「がんばって踊ってるだけ」と思ってしまう。「今回の春のおどりは踊りまくってますよ!」と言われても「それで何を見せてくれるのでしょうか」といつも思う。ダンスで何か見たこともないものを表現して見せてくれたら感動する。恋い焦がれて見てるだけで胸がいっぱいになっちゃうような人が踊ってたらきゃーすてきー、でただ踊ってるだけでも気はまぎれるんだけど、そういう人はいないので今。

また話がそれますが、『春のおどり』が終わってレビューカフェのスタッフ発表、とかされてたけど、スタッフに振付の名前が無いってなんなんだ。ダンスのOSKなのにおかしくないか。こういう時って自分らで振付してんのでしょうか。いやレビューカフェは歌が中心だから振付はそんなもんで……って言われたって歌で聞かせられるわけでもないし、毎回手作りの発表会みたいな一時間のショーを、ちょっとだけ目先を変えて新作と言われても。なんかまちがってると思う。音楽も振付もキチッとつくってそれをメンバー順繰りに変えてずーっとやったらいいんじゃないかと私は思う。衣装もちゃんとしたやつにしてね。「あそこに行けばあの公演が見られるから行こう!」ってぐらいの公演を。OSKの劇団員は全員、その公演はどのボジションでもできるようにしておく。いつでも誰が入っても抜けてもできる。……と、どこかの劇場の上野遥みたいな話であるが上野遥はめったにできないことをやるので名前が上がったわけで、ダンスのOSKなら全員それができてもいいと思う。まあその前に、それほどの公演をつくれるのかというのが大問題だが。

それで何が言いたいかというと、今回の春のおどりの洋舞は、「すごく踊ってたけどそれだけ」だなーという落胆である。もちろん私はOSKの劇団員が好きだし、彼らがいっしょうけんめいやってるのを見れば心を動かされる。何回か見るうちにその「踊ってた」部分のデキが(音楽や振付が)いいところもあって、なかなか気持ちよく見られることがわかった。見ていてカンにさわる場面もあんまりなく(しいて挙げれば洞窟のとこか。またこういうやつか〜〜、というのと、青いカツラの娘役が受け付けない。でも一徳先生のにはほぼこういうの出てくるよねー)、ラインダンスは振付がことによくてさすがに感動させられるものがあった。私が今まで見たラインダンスで「いいなー」と思ったのはチアリーディングからスカートをバリッとはいでお尻のフリルにしてガンガンやってた2006春と、天使が羽根をつけたりとったりするちょっと変化球ラインダンスの2006秋、やっぱり何か変わったやつが好きなんだ。でも今年のは「直球で、それでもなお良し」だったので相当すごかったんだろう。ということで、決して悪いショーではない。3回めぐらいにやっとそのことがわかった。

BLACK WAVEという景がある。ソフト帽かぶったスーツ男がかっこつけて踊るやつだ。ワケあり風の女たちも出てくる。歌劇につきもののこの手の場面、はたしてこの男たちはどういう職業なのか。というのは前から言ってるんだけど。やっぱりヤクザでしょうか。この景のラストは、ひとり取り残された高世が、思い入れたっぷりにふりかえって暗転、っていうこの場面を見ていて私は「うーん神戸の井上さんは今こういう気持ちなのかな」とかふとよぎってしまい笑うとこじゃないのに笑ってしまって申し訳なかった。

えんび

春のおどりの感想(日舞編)

思ったこと思い出したこと。とにかく初日の初回から見たい。他人の感想を聞く前に自分で感想を言いたい。三階に大好きな席があってそこで見た。あとは一階の6列目センター、3列目花道横、最前列上手で見ました。

★チョンパの瞬間にショックを受ける。舞台の絵面がスカスカだ。チョンパってもっと豪華なものでは……。
(この気持ちは一階6列目で見たときも変わらなかった。しかし2列目で見たらそうでもなかった)
(発表会みたいな絵面だな、と思っていたのだけど、大きな劇場の日舞の会とかだとこんな絵面だったような気もするので、ある意味正統的な日舞の絵面なのかも)

★そのチョンパから幕開きの総踊りは、まあいつもの感じ。主題歌は印象に残らず。ここまではあまり盛り上がらず(私が)。

★いきなり『松を手折って松を助く』という場面になる。赤子を抱いて出てきてるのはふつうに考えれば常盤御前。でもセリフもなけりゃ何の説明もない。歌があるけどそれも抽象的なことしか歌ってない。場面の説明ではない。この時に「え、これは、すごい、すごいかも……!」という予感が芽生える。

★赤子が入ってるカゴが、うちで洋服つっこんでるカゴとたぶんいっしょ。

★赤子が牛若丸に変わって出てくるところは、想像通りのよくある出てきかた。だけど「やっぱりでたーーキターーー!」という気持ちにさせます。

★弁慶。桐生さんが弁慶やるって聞いた瞬間から落胆していた。安易なキャスティングとはこういうことだよ! 私なら弁慶は悠浦にやらすが。桐生弁慶は想像通りでつまんなかった。五条大橋の有名な場面は、殺陣がいまいち。牛若丸が橋から飛び降りるところ(鞍馬の天狗たちが担ぎ下ろすことによって、空を舞って飛び降りる、みたいな振付)は、いかにも段取りなのがみえみえなのでアチャー。これは千秋楽の前日に見ても段取りちっくなままだった。うーん。
五条橋は義経モノなら欠かせぬ場面だったと思うけど、わりかし平凡でした。でもここの場面もまったくセリフなし説明なし。

★暗転ののち「波の男女」が出てきてのどかな歌(やっぱり抽象的な歌詞)を歌い出し、中幕が上がると灰色の台に乗った女人が舞っていて、「あーこれは建礼門院!」と思ったら扇の的をかざしたから「ちがう那須与一だ」とわかる。このあたりから曲調が変わる。宝塚っぽいというかエリザベートっぽいというか、そんなふうに不穏に盛り上がるので「なんか宝塚っぽいのはイヤだな」の「な」のあたりで花道から那須与一が登場して盆が回りだし、扇持った女房が乗ってる台もぐいんぐいんと動き出し盆の動きと台の動きはそれぞれ好き勝手なのにうねるように連動していて、さらにぐるぐると荒れる光と影が舞台の全面を覆い尽くし、そうやってバケモノのように動く盆を那須与一がさらに軽やかに飛び回っていく。これを初見で上から見下ろしたのが大きかった。「こんなのはじめて見せられた!」という衝撃。女房は遠かったので誰だかわからなかったが、美しくて、この舞台のうねりを生み出してる妖女なんじゃないかと思われた。あとでそれが舞美りらと知って驚いた。こんなにきれいな舞美ちゃんはじめて見たよ。うねる舞台に翻弄されながら花道七三に戻った那須与一が、この公演で最初に発せられたかと思われる「南無八幡大菩薩この弓ナントカカントカ」というセリフとともに弓を放つ(これも弓も矢もなくて扇で表現)、すべての動きと音が消え、ひゅるるるるるるるーーーぱしん! と女房の扇が撃ち落とされ(ほんとに前にびゅっと落ちる)そしてそれが一瞬にして空に舞い上がって(まるでUFOみたいに左右に舞いながら)消える。宝塚みたいな音楽でやだな、とか思っていたことなんかすっかり忘れてた。この場面にはこの音楽しかない。この場面終わってもしばらくドキドキが止まらなかった。

★次は所謂『先帝身投』の場面だけどここはべつにそれほど。安徳天皇六歳なのに加冠してる姿(これ明らかに間違い)なので哀れさに欠けたのと、「波の下にも〜〜〜」っていうわかりやすい歌詞の歌がどうも間が抜けてたので。初日は三階からだったんで誰が歌ってんのかわかんなかったが、至近で見てみたら愛瀬ではないか。もっと歌うまいはずなのになぜ。それでなんか楽しいこと歌ってるような感じで、別の都に行くから楽しいという解釈もありえるけど。続いて『能登殿最期』。壇ノ浦での平家と源氏の戦いで、能登守教経が源氏の郎党を両脇に抱えて入水して果てる。壇ノ浦であるしいちばんの大立ち回り場面。ここも盆が回りセリが上がったり降りたり、佐藤継信の目がいきなり矢に射られるとかヒエッと思わせるギミックが仕込んであったり、継信を殺し終えた教経の表情が超クールでBL小説のインテリヤクザ(だが殺しとベッドは凶暴)みたいでよかったり、……まあそのぐらい。立ち回りがやっぱりちょっとイマイチだったな。義経は接近戦はよくないとみた。このあと静御前が出てきてラブシーンぽいのがあってややだれる。だれたらいきなり現代の素頭に着流し姿の那須与一や能登守教経や佐藤継信や弁慶さんたちが出てきて民謡メドレーとなります。最初の民謡で「ここは平泉ぃ〜」っていうので「あー義経だしね、そういうことね」とすぐわかる。OSKファンは民謡メドレーを愛するけれど、ここの民謡は選曲とアレンジがどうも疾走感なかった(ここの音がいちばん宝塚ぽかったのかもしれない)。いやこれは道行きのアレゴリーだからそんなにスピードは要求されない……と自分に言い聞かせたがそれでもやっぱり「あんまり好きじゃない民謡メドレー」だったかもしれない。

★まあふつうはそこで終わるというのがOSKの日舞なんだが、民謡のあとにまたフル装備の弁慶が登場し立ち往生し(やはりあの民謡は衣川までの道行きであったことがここではっきりわかる)また静御前の幻影みたいのが出てきたりとか義経もたぶん死んだ……というような場面がきて、最後は登場人物全員揃って総踊り。死者のお祭りですな。ここでまた主題歌が出てくるがやはりいまいちな曲でありそれが長い。フルコーラスが5番ぐらいまであるようないつまでやってるのかという長さ。長すぎてトランス状態かっていうぐらいだった。あ、死霊の盆踊りか。

こう振り返ると、「なんの説明もない」のと「那須与一」のとこだけでもう私としては240点ぐらいで、他のマイナス点を差し引いていっても98点にはなる! みたいな感じでした。今冷静になってみれば「なんだかな……」な場面もあるし82点ぐらいかなあ。最近は70点に届いたら御の字だったのでそれでもすごいことである。でも何よりも私が不満なのは桐生麻耶が弁慶やったことか。別に桐生さんがだめだとかできてないとかそういうことじゃなくて(誰にあれができるんだ!ってぐらいのものです)(でもそれはもうわかりきっていたことなのです)、なんかもっと、「ええーっこんな弁慶が!」みたいなのを見たかったよ。なので私は悠浦に弁慶やらせたらいいと思ったんだけど、今回の春における悠浦はどうも存在感が薄かった。なら楊の弁慶も面白かったんでは。とかいろいろ考える。なら桐生さんは何をしたらいいのか。『大原御幸』?……いやーそれもわかりきったものになるよな(でも弁慶より見応えあると思うけど)。じゃあ俊寛……てのも弁慶ダメと同様にダメなセレクトなんだけどさ。でも誰か若手の男役を有王にして。その場面見たいよ。牛若丸の次に那須与一がいきなり出てくる構成なら俊寛をどっかにぶっこんでもぜんぜんおかしくないよねー。

武者たちと公家

石走る垂水の上の早蕨の

折原有佐=折ちゃんの卒業公演が終わった。折ちゃんらしさのあふれた良い公演であった。

いや、べつに『Let’s Hung Out!』は“折原有佐卒業公演”と銘打たれてたわけではない。最後に出演した舞台がこれだっただけだ。主役だなんて思ってもいないだろう本人も。でも主役でなかったから折ちゃんらしさがあふれた。

男前な娘役、というのはOSKの娘役にはよく言われるホメ言葉だがほんとに男前な人は実はそれほどいない(宝塚と比べりゃ多いのかもしれないけど)。そんな中で、OSKが誇る男前娘役の若木志帆という人がいた。そして折ちゃんもまさしく男前娘役であるのだが、でもふたりの男前っぷりはぜんぜん違うのだ。水がなくなってみんなが死にそうになってるとする。そんな時、ひとりで立ち上がり、スコップで岩山を砕き泉を掘り出してしまうのが若木さんで、自分が泉になってしまうのが折ちゃんである。どうやって泉になるのかって、そりゃ、水をびゅーっと……ってそれじゃ水芸の人みたいだが。とにかく折ちゃんは水々しい(瑞々しい)。舞台にいつも澄んだ水をあふれさせる尽きない泉みたいにそこに出現するんです。おいしい水をみんながすくって飲んで生き返る、ような存在。悲壮感も何もない。じめじめしてるんじゃなくて、ほとばしる透き通った水。その水を浴びて桐生さんがやたらかっこよかったよね。虹架も愛瀬も。別に娘役は男役に寄り添わなくたっていい。ちょっと横から水をじゃぶじゃぶ浴びせて、水もしたたるイイ男に見せるんだっていいじゃないか。……そんな光景を見せてくれた人は、嗚呼、これで卒業しちゃいました。泉の蛇口をぎゅっとしめて、後ろも振り向かずに歩いていきました。しかし蛇口しめられちゃうとこの先、水はどうしたら……誰かー!

で。
『Let’s Hung Out!』は丁寧につくってた公演だと思うし、何よりも桐生さんがすごいかっこよかったのは良いことでした。折ちゃんも可愛かったりかっこよかったりいじらしかったりして、卒業を美しく飾ったと思う。ただ、一点どうしても納得のいかないことがある。第23景『エトワール』。

ここで歌われる『エトワール』という曲は、2008年一月に世界館で行われた『エトワール』という公演の主題歌だ。この公演は、当時の娘役のトップにいた北原沙織の退団公演で、この曲は「彼女の退団のために作られた曲」です。

2008年1月世界館公演エトワール

今回聞いた方はおわかりのように、歌詞も曲もとてもいい歌なのですよ『エトワール』。だからこの曲を「OSKオリジナルの良い曲」として歌うことは、まあアリかなと思う。じっさい高世麻央がソロCDでこの曲をカバーしたし。

しかし、退団をする娘役が、退団公演でこれを歌うということになると意味がちがってくる。北原さんのサヨナラのためにつくられた曲を、なんの前置きもなしに別の娘役にサヨナラで歌われたら私は納得がいかない。

たとえば松竹座で名倉先生が、2007年春のおどりの『ラストショー』という場面を、同じ振付で『ジャストダンス』と景タイトルだけ変えて2回再演した。その時に先生から「この場面はOSKに踊り継いでいってほしい」という思い(卒業していく大貴誠→トップになった桜花昇ぼる→トップになった高世麻央へ、そしてずっとその先まで、と私が勝手に読み取った思い)が語られた。私は2007年の『ラストショー』を宝物のように思っているけれど、名倉先生の思いも理解するから、再演にも納得するのである。

今回、折ちゃんが「最後にはあの曲を歌いたい」って希望したとか、あるいは先生が「折原にぜひこれを」とか(ちなみに『エトワール』は芹先生が演出でした)、劇団が「あの曲は、娘役が退団する時のための曲として歌い継ぎたい」とかいうことであれば、ちゃんとそう言ってほしかった。そう言われれば文句なんか言いませんよ。べつに舞台で言わなくたってプログラムに一行そう書いてあれば、こんなモヤモヤはしない。

(この作品に限った話ではなく、外部の発表会でやったのと同じ場面を武生にそっくりそのまま持ってくるとか、和倉でやったのを松竹座でやるとか、OSKの公演でそういうのをなんども見てしまって、この世界はそういうもんなのか、いやちがうだろうそこは、と思い続けてきたので、今回のことも、よりによって退団するという公演の退団者のメイン場面でそれだったことに普通以上にひっかかってしまった。場面の再演というのは意味のあることであって、使い回しというのはただの怠惰だと思うので。こんな時に、客に、使い回しだとか思わせないでほしいです)

(でもこのことも折ちゃんがほとばしる水で洗い流してくれるでしょう)

(なんの本だったか忘れたけど、「アルプスの水をかためて磨いたような透き通るレンズ」っていう文章があって、それ読みながら「折りちゃんみたいだなあ」と思っていたことを思い出しました。そんな透き通った瞳でちろっと横目をつかう花魁さんのお写真を最後に)

おりらん

(おまけ)

脳の場所

「娘役のOSK」って言いますけど今はもうちがうような気がします。それは娘役の質が落ちたとかいう話ではなくて、昔のOSKの娘役って「可愛らしい奥さんになりたくて結婚してみたらダンナサマがすこし甲斐性がなくてついバリバリ働いて子供も育ててるうちに女社長になっちゃった」みたいな感じだったじゃないですか(ちがうか)。今はもう出だしからして「アタシは好きなように生きるのカレシは好きだけどー奥さんとかムリー家事とかむりむりー子供とかありえんてぃーバイトもだるいし社長なにそれ美味しいの」みたいな感じになっていて、自由に生きられるという点でそれもまあいいんじゃないのかと。そういうのだって今どきのしぶとさみたいなもんで、昔とは別種のオンナノコの強さだと思います。ただしそれを取り囲む装置がわりと昔ながらの機構なもので、今どきのオンナノコの強さが浮いてみえるということはある。ただその取り囲む機構もさいきんは建て替えに入ってるみたいだしこれからしっくり行くんじゃないですかね。さてここに載せましたのは横目好きな私が選んだOSKの娘役スターのやや横目のお写真ですが、ここに出した人が「ありえんてぃ〜」なギャルなわけではないです。でも昔ながらの「娘役のOSKの娘役」でもない。きれいでいいですねー。

思ひかはしてまた横目する事なく

ポスターの写真とか舞台写真で「なぜこの写真を選ぶ」と思うことがよくあって、というかそんなんばっかしで、私がかっこいいと思う表情や角度ってのはあんまり多数の需要がないらしい。私が好きなのは「横目」で、こっちを見てるんじゃないやつ。

というわけで撮可の『レビューJAPAN』で撮った写真で、スター様が好きな顔をしているもの2点。

おにのさうだん

『鬼ノ城』は、あらすじを読んだ段階で、というか日本中に散らばる鬼伝説から考えても失敗するわけないストーリーで(千年以上も人口に膾炙して練り上げられ単純化され完成した「おはなし」だ)、異人が哀しくもその本性を露わにして滅ぼされざるをえない、と想像しただけで泣けるではないか。それもその鬼を桐生さんがやるっていうんでしょう。涙なくしては見られませんよ。……と思ってたのにどうしてああなった。

私が想像してたのは、悪者の奸計にかかって愛する妻を殺された、やさしい異人。妻の亡骸を抱き上げて泣く。やがて固まったように動かなくなる。静かな嗚咽が徐々に恐ろしい咆哮となり、顔をあげると髪は逆立ち目は燃え盛る炎のような金色に光り口からは血を吐くように呪詛の言葉を吐く鬼に変貌している……みたいな場面だったんですが。異形であればあるほど可哀想である。そしてかっこいい……!

それが、おめえの女房誘拐したったぞーどうせ死んでんぞーとかチンピラみたいなやつにゲヘゲヘ笑いながら言われたら唐突に(いや、唐突なんだけど、やけに「準備完了」的な段取りも感じさせる)鬼になって暴れだすから、私はこの場面見て「……。こんなアブナイやつは早めに退治しておくが吉」と思った。嫁さんの死体見つけるまでこらえろ。

はやみ作品におけるつっこみどころや考証無視は、私はいちいち気になるほうだ。とくに、カッコつけようとして背伸びしたセリフを言わせてるその言葉が間違ってるとことか(今回だと「大逆罪」とかな)。バカみたいなのでよせ。と言いたいけど、芝居ってのは結局は「なぜその人物がそういう行動をとるか」が納得できれば、そしてその行動に感情移入できればいいのだ。鬼になって人を殺戮しまくる。恋の恨みがこじれて王権奪取しようと目論む。そんな気持ちを自分のもののようにわからせてくれる、というのが芝居の醍醐味では。その醍醐味の前にコトバや考証の間違いなど何ほどのものか。

その醍醐味がないんだこの『鬼ノ城』は。鬼は哀しみよりアブネーと思っちゃうし、主人公のイサセリさんもなー、出自にいわくがあるようなことを匂わせて、なんか秘めたる力もありそうな感じで、辺境を行く貴種流離譚〜〜〜な、設定は盛りすぎるほど盛ってある。で、正義感にあふれ洞察力もありそうで「温羅(うら←鬼さんの名前)と会ってみたい話がしてみたい」とかいってる割に、トコトコ歩いて「うらーうらー、どこだー」って呼ばわってるだけ。やっとみつけた温羅は鬼みたいになってる。こここそ話しどころだ! ……なのに鬼とは話す気もなさそうにさっさと戦闘態勢に入ってるし。頭悪そうでイヤになる。イサセリの子分、とくに犬、アンタ温羅をさがしてて見つけて温羅が鬼になる理由から何から見てるのに(これを物陰から見てる、ってのも意味がよくわからん)ぜんぜん報告もできてなくてそのせいでどれだけいらん人死にが起きたと思ってんだ。私が鬼ならまずこいつからくびり殺す。ここで私はつい『闇の貴公子』を思い出し、異人が鬼に変貌するという、そこまでの流れがちゃんと納得いったよなああっちは、「鬼の話とはそういうもの」と開き直ってこっちもそういうふうにしてほしかったなあ、と思った。こっちは、意味のない行動をさせてすっきりしない展開になる。だめだと思う。

望月上道という右大臣が、なんか大王の大后といわくがあるらしく、それが原因で王権転覆を狙っていて、温羅を陥れるのもみんなこの上道が糸を引いているワルなわけです。その割に台本上でたいした書き込みがなくて、そのせいでいい意味でひっかかりがなく、でも見終わった時に残る「小悪党」感。これを見る前に、「あの上道の役を大貴さんがやったらどうだっただろう」と言った人がいて、そのつもりで見てみたけど、大貴さんがやったところでたいして役には深みは出なかったであろう。誰がやったってあれはつまらん役。ということは誰がやってもあれはできると思う。とてもカンタンな役。最後に悪事がバレて瀬戸内海の女木島に流される、が、そこで「オレは負けない一旗揚げてフッフッフ」、みたいな独白で芝居は終わるのですが、10年ぐらい前に女木島に行ってみたことがある。すっごいのどかでノンキな感じの島で、そのノンキな島でブイブイ言わせて最後までフッフッフと言ってる上道の姿が想像されて、楽しい気持ちになった。余韻は余韻でもそりゃ別の余韻だろう。

さらにそのあと、温羅さんが出てきて「いやーコワイっすね人の心には鬼がいますよね」的なトークをしはじめたから目が点。なんなんだこれ。武生のルパン三世が渡り鳥の説明する「かんべんしてくれトーク」再び。そんなところで北林作品の真似をしないでいいよ。最後にそういう説明つけるなら(つける必要ないけど)(そういえばこの芝居、何かあるたびに、たとえば温羅が鬼になった場面に、「温羅は、鬼に、なった」とかいう録音ナレーションがいちいちかぶさるという謎仕様だった。視覚障害者向けとも思えず、これもまたバカみたいな演出だ)、おとぎ話の鬼の話を聞いて怖がる子供に、鬼の真似をして哀しい話をしてやりながらふと遠い目になる温羅(にそっくりに見える男)、とかの場面ぐらいにしてほしい。

ここまでは台本と演出の話。あとは演技がなあ。全体的に「いつもと同じ」。想像以上のものが何もない。役者に、こちらのイマジネーションを超える何かを出させるのは作品の力だ、と思いつつ、こういつも通りでは……まあ……作品がよくないんだとは……思うんだけどねえ……。

Home

検索
フィード
メタ情報

Return to page top