おまえのいぬになる*14

承前)
昼の部がライブで、夜の部がサロン。昼の音はロックで夜の音はジャズ。夜の部のほうは、お茶とお菓子が(客席に)出る。昼はカジュアルな衣装で夜は燕尾である(昼間の衣装を経費と言っても税務署は認めてくれない。夜のほうは大丈夫だ。あれを着て出歩くことはない)。つまり夜の部のほうが雰囲気も衣装も音も世界観みたいなものが確立しているわけだ。その世界観によりかかってちゃ単につまらないものになるだけだというキケンはあるけど、道具立てがしっかりしてるというのはありがたいというか、ラクなことである。

しかし当日になるまでライブのことしか考えてなかったしライブのほうのイメージが頭の中を占めていた。サロンのほうはどうしても後回しになってライブのほうばかりにわくわくしていた。

というのがじつは落とし穴であって、イメージといっても「ロックの観念」が頭をうずまいていていただけだった。本当ははっきりと「こういう音でこういう流れでこう照明をあててこんな空気をつくる」というのが目に見えて、それを人にもきっちり説明できないといけないのだが、そういう具体的なことはすべてもやもやとした霧の中である。「大ちゃんのロックセンスがハマればいかにかっこいいものができるか」と夢想して喜んでいただけだった、と今となってはわかるんですけどその時はもう逃避するような気分でそっちに考えが行っちゃってて戻ってこない状態だった。大ちゃんがえらいと思うのは、そのへんのあやういところを動物的カンによって察知するところなのだが、察知して指摘するまではいいとして、大ちゃんという人が「自分の中にわだかまっているイメージを固めてそれを人に説明する」のが得意じゃない人で、というのは言葉を知らないとか説明がヘタとかそういうんじゃない。それならいいんだ。そうじゃなくて、人間にはものを考える時に、足をつけている地面のようなものがある。その地面が、大ちゃんの場合、どんどんねじれていくのだ。ねじれてねじれて、ふと気がつくと足が天井にくっついている。でもさらにじりじりとねじれて、また水平に戻る。そのねじれ方が、時計の分針のように決まった動きならいいがそうではなくてふと気づくと歪んでいてふと気づくと戻っていて、いや歪んでいると気づければいい。自分の足が天井にくっついていても「ああこんなことになっている、これがほんとうなんだ」と思わされるという、そういう世界に巻き込まれるのだ。言い訳はするなそこに直れ歯をくいしばれ、と軍隊の上官が叫ぶのが聞こえてくるような話ではある。言い訳というか、その時の実感を反芻しているわけです。大ちゃんの動物的カンによる指摘の意味合いもわかるのだ。

ライブの幕があき(あの会場に幕はなかったが。客電が落ちて音が鳴り照明がついて舞台の上に大貴さんが照らされた時)、私は「ああ大ちゃんが帰ってきた」と感動してほとんど涙がにじみそうになった。オープニングは『TREASURE』であって、これは楽曲の力がありなおかつ大ちゃんが自分のものにしている曲で、それは最高の出だしである。(つづく)

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