オレンジ色の光る桜

四月九日。春のおどりが始まって最初の土曜日。松竹座に行きました。
愛媛から広島に引っ越したので、大阪までの時間は同じぐらいだけど、陸続きで、新幹線は10分に一本ばんばん来るから体感としては大阪は近くなった。ありがたや。
今回の春のおどりについては、始まる前からすごくいろいろと思うところがあって(そのいちばん大きなものは、大貴さん退団後はじめての山村若演出の日舞作品であるということ)、けっこう緊張しました。しかし松竹座に入場して最初に出た感想はクダラナイものでした。プログラムにも載ってる男役トップスリーの写真。その高世の髪型が。なんであんなジャンボ尾崎みたいな髪型にしてんの?……私は高世さんの髪型について「あまり変えない」ということに不満を抱いてたんだけど、新機軸はいいとしてこれはいったい。(高世さんの髪型問題についてはまた後段に続きます)

昼の部は7列センターでした。全体が見渡せてとても良い席でした。でも夜の部が1列センターで、そこで見てみると、私はこの作品は日舞は前で、洋舞は見渡せる席で見るほうがいいと思いました。その理由などを書いてみます。

まず、問題の日舞です。若先生作品。開幕してから時間がたってたのでいろんな方のレポートや感想を読んで、どういう場面でどんなふうになってるのかは知ってたつもりでいましたが、実際見るとやっぱり頭の中で想像してたのと違うもんです(あたりまえですよ)。ものすごくいろいろな気持ちが頭の中を渦巻きました。思いついたことからずらずらと書いてみます。

『桜狩り』。『紅葉狩り』をモチーフにした「美女に恋して恋煩いでヘロヘロの公達が、その恋した美女が鬼とわかってさらにヘロヘロボロボロになりながら鬼にやられかかる」の場面に、狐と猿の「動物対決」がからんでる長い場面。この場面を最初に見終わったとたんに思ったのが「これ明日千秋楽なんですが……」。ここまで回数重ねて、客の視線や拍手ももらい、気持ちも練れてきている段階でこれって、初日初回がいったいどんなことになっていたのか想像するのが怖ろしい。
それと同時に、別の重い気分が襲ってきた。この場面、先生が頭に思い浮かべた時にはすごいよかったんだろうなあ。というか、若先生が頭の中で思い浮かべたこの場面の完成予定図を私が勝手に思い浮かべて感動してるだけでありますが、実際に目の前で展開されたものは……。こんなはずじゃないよな、いくらなんでも。しかし千秋楽を翌日に控えてこんなことになってるってことは、これが現実か(泣)。この、イメージと現実との乖離の問題。これが胸に迫る。まるっきりスケールは違うけど、自分で思い浮かべてたことと現実の落差に打ちのめされることは誰でもあるでしょう。私もいっぱいある。なんかいろんなことを思い出してしまった。

なんでこんなことになってしまったのか考えた。美女に化けた鬼がことりちゃんで、公達が桜花ちゃんで、二人にそれぞれ大きな不満がある。まず美女が出てくるところ。この、出のところからすでに「え? これでいいのか?」。この美女には、何かがあるとは思えない。武生の紫式部かっていうような「ぽかぽか陽気にお花見の気のいい女子」みたいなことになっている。もちろんその後、花道でふと鬼の正体をちらっとだけ見せる、というのがあるからその落差を際立たせるために、最初に出てくるところでは「ただただ美しい女」であることが重要であろう。それでも、「美しい、公達がひと目ぼれしちゃうぐらいの魅力。でも何かがある」ようであってほしかった。でもそこは演出の問題で「イノセントな可愛らしい美女」であることを要求されたかもしれない。それは充分ありえる。でも、それでも、そのイノセントな中に何かがある、というのは出してほしい。というかなくてはならないと思う。残念ながらそれがなかった。
そして花道を去る時にちらりと見せる鬼の素顔。ここの演技が「頭で考えて表情つくってみました」というふうに見えてしまって、前段のノンキなお花見女とあいまって「鬼」というより「小悪人」ぐらいにしか感じられなかった。「フフフあの兄ちゃんのサイフすってやったわ」ぐらいの。

この鬼女の役、ものすごく美味しい役である。なのに美味しさをモノにしてると思えないのがたいへん不満なのです。桜花ちゃん演じるところの公達なんか終始受け身で懊悩してて難しい上にジミ。その懊悩男を相手に、鬼に変身して大暴れ。なんというほっぺのおちそうなほど美味しい設定。ああそれなのに、鬼になってから、そんなに美味しくない。理由はたぶん、立ち回りの動きがそれほどきれいじゃないから。すっと立って打杖をぴし、ぴし、と打ち下ろす姿がかっこよくて「うわ、これは!」と思ったのに、その後、動きが多くなってきたらぐずぐずになってしまった。下半身の動きおよび着物のさばきがよくなかったというのが目についたいちばんの残念なとこだ(さばきは、手下鬼の二人のほうがきれいだったんで余計目についた……せめて袴でもはいてたら目立たずにすんだかもしれない。というか、あの場面、あの出で立ちなら袴アリが本式じゃないのか)。テープによる目元と口裂けメイクについては、いくらテープでももうちょっとやりようがあったんじゃないかとも思うんだけど、しょうがないか。しかしあれは動きがきまってたらメイクのことなんか気にならなかったに違いない。

さて鬼に対しまして辛抱役の公達の桜花ちゃん。迷っているのでは。なんだか「なぜ私(桜花昇ぼる)がこういうことをやっているのか、自分でよくわからない」みたいに見えた。それいちばん感じたのが、狐と猿が出てきて対決を始めた中でゆーっくりと舞台後方の桜のむこうを歩いてぐるっと帰ってくるとこ。美しく苦悩の表情の公達なんだけど「???」ってのがフキダシで見えてるようだった。だから、見ているこちらも(私は途中で面白くなっちゃったけど)居心地悪くなる。

ここで話がちょっとそれますが、幕間に二階ロビーでウーロン茶飲んでたら、同じテーブルにいたお客さん(若めの女性二人)が今終わった日舞のことをしゃべっていた。曰く「なんで鬼になってるわけ?」「あれは紅葉狩りっていう話で鬼になるんだよ」と。私はそれを聞いて「なんで鬼になるのか」という疑問にすごくびっくりしたのだ。ええ? あそこで鬼になることが、納得いかないの?
ああいう流れで女が鬼(のごときもの)に変貌する、というのは小説なり映画なりマンガなりでいくらでもある表現だし、あるいは自分の実感として、感情をああいう情景として表現することってふつうにあると思うのだ。人間には想像力ってものがあるだろう。「紅葉狩りだから」と答えたその友だちの発言は正しいわけだけど、別に紅葉狩りだからじゃなくても、というか紅葉狩り知らなくても(私はよく知りません)、充分に成り立つ表現だと思うんだが。しかし、もし紅葉狩りというものがなかったとしたら(あってもこの調子なので)さらに「なにこれワケわかんない」なんてことになったんだろうか?
(さらに話はそれるが、歌劇の人は、洋舞のショーなんかにおける、スーツ着て踊ってる場面のあのスーツ連中は一体何者かとか、へんな銀色のカツラかぶってひらひら踊る妖精とかの場面なんかのストーリーのオチとかについては、なんの疑問も抱かないんだよな。私はそっちのほうが不思議だよ。不思議だけどワケわかんないなんてことは断じてないですけどもね)

台詞がないからよくわからない、という感想もけっこうあって、そんな説明してもらわなくちゃわかんないのかなあ、と私はそっちが不思議だ。でもそういうことを作り手の側が言えない。「台詞がないけど(ないからこそ)よくわかる、すごくかっこいい」という作品ができてそこで勝利、というのが正しいのであろう。
その勝利を手にするためには二つの段階があって「1.作者→演者」「2.演者→客」。演者から客へは舞台以外での説明は邪道とすると、「作者→演者」の段階で、演者が作者の考えを理解しないといけないことになる。十全の理解あっての「客への説得力」というものだ。もちろん「作者から演者」の場合、演者が理解するように説明できないといけないし、演者は作者の言わんとすることを理解する努力をしなければならない。

で、桜花さんという人は、必ずしも「のみこみの早い」ほうじゃないだろう。どっちかといえば不器用なタイプだ。役をモノにする、という時、必ずしもその解釈が正しくないんじゃないか、ということも散見される。しかし、たとえば『YUKIMURA』における真田幸村。あの幸村像って、私は「間違ってる」と思うんだけど、ああ演じる桜花ちゃんは「たとえ世界が崩壊しても私の幸村はこれしかない」という、巨大な信念で演じているので、「間違ってる」と思うこちらなどなぎ倒してしまうわわけだ。そして、『桜狩り』の桜花ちゃん演じる公達に、信念はなかった。
(ただ、この桜狩りを含む一連の場面は、音楽がよくなかったと思う。それもこうなっちゃったら大きな一因でしょう。一曲として聞くと好きなメロディーラインやサウンドエフェクトもあるんだけど、この場面全体通して聞くと平板だった)

しかし、チーム若が振付をされると、日舞の「格」というものが上がるからこれはとてもうれしい。やはり松竹座でやるならこうであってほしいものです。……ただし、きちっとやってくれれば。みんな、日舞のお稽古、しっかりやろうよ(泪)。狐猿合戦のとこなんかは、小芝居やるのはテンションアップになるからいいとしても、小芝居に逃げてくれるなよ。あそこって、いくつかの群がふわふわっとゆるんでから、きゅっとしまってパシッと揃って、そしてまたふわふわゆるんで、という一連の大きな動きで成り立ってたのに、ふわふわなままでなかなか締まらなかった。「それじゃあしまらない」とよくいうようなことに、場面全体がなってた(泣)。締めるとこさえ締めてくれればあとでどんな小芝居やってくれてもいいのに。締まらないまま小芝居されると、ただのドタバタと内輪ウケになっていってしまいます。ファンは楽しみを見つけにいくのであるから、そういう小芝居を楽しんだっていいんだけど、それでウケたから(と思)ってそれでいいとは思わないでください。……もしかしてあそこも、出演者が意味わかんないままやってたのかなあ。
日舞のお稽古をしっかりやってほしいと思ったのは、オープニングが終わって舞台上から花道通ってハケてくところの、後ろのほうは超下級生の混じる率が高かったからしょうがないとして、先頭の序列上位の人たちが多いあたりですら、運びがばたばたしていて見苦しかったのと、着物の着付けがきれいじゃなかった(オープニングだから時間かけて着られるはずのところだ)のを見てつーせつに思いました。

『夜桜』はもう少し回数を見てみたかった。『葉桜』は、高世さんの出で立ちが大衆演劇方向で、充分似合っていたしかっこよくもあったけどあんまりよくない方向ではないでしょうか。それと扇子投げのところは……あれは受け取ろうが落っことそうがどっちでもいい、と思うほど姿が汚かったです。あれにはがっくりきました。それぞれの扇が美しく弧を重ねながら飛んでたらどんなによかったことか。必死のお稽古であそこをぴしっと決める……ってわけにはいかなかったものか。お稽古。お稽古。お稽古。『夜桜お七』は、桐生牧名の演技プランが曲と合ってなかったなあ。

扇子にかぎらず、びしっと決まっていれば(というか、劇団員がびしっと、決めてくれれば)、すごいいい作品になっただろうに。というのが私のこの春の日舞に対する感想の大黒柱ですが、同時に作品の、劇団員以外の部分で思うことは、オープニングの桜咲く国のアレンジがそれほどいいと思えなかったことと、フィナーレの部分が少し弱かったんじゃないかなと思うこと。……こう書くと演者への批判しか書いていない感じですね。それは確かにそうです。もっとがんばってくれ、とほんとうに思います。ですが。

ですが、「頼むよ〜〜」と思いながらずっと見ていて、ふと気づいたらそこにいたのは、(その時はなぜか)高世で、やけにきれいだったんです。いや、だからそれはたまたま高世さんで、他の人もきれいなんですが、とにかく高世さんのきれいさにじーんとなって、なんだかんだいっても私はこの人たちの出る舞台しか見にいく気はないし、楽しむこともないのだ、ということが、オレンジサンシャインが降ってきたように頭の中にしみこんできたのだった。高世さんの髪型のことが書ききれなかった。洋舞の時の話なので、また稿を改めます。

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