学芸会の意味

日が経って多少気持ちが落ち着いた。って、興奮してたわけではないんだけども。しかし『Fresh Soda Balloon』を見たあとに「いやな気持ちとかハラがたつようなことにならなかった」のはこのごろ珍しい出来事だったので喜んでいたわけです。

でもなあ。
と、ふと振り返って考えてみると、この公演は、出演者のためにはよかっただろうけど、「ファンを増やして劇団を発展させる」ためにはどうだったんだろうか。

もとからいたファンはいい。どういう劇団員がいて、それがどうできてなくて、どうできてきたか(逆も然り)、見ればわかるし、それが喜び(逆も然り)になる。でもその見方って学芸会ではないだろうか。ダメな舞台を罵倒する言葉として「学芸会レベル」とかいいますけど、学芸会には学芸会の意義というものがあり、学芸会だからいかんものでもない。しかし、(この公演に限らず)今のOSKに対するファンの暖かな声、あるいは罵詈雑言(は表立ってあんまり聞かないが)って、学芸会を見にきている親や先生や先輩後輩の意見でしかないような気がする。
「あの●●がこんなにできる!(orできない……)」
いやー、宝塚も基本そういう客の集団から成り立ってると思うけど、あちらは客係数(客の人数×客から出る金の額)がこちらの(たぶん)百倍ぐらいあるみたいなのでそれでも商売になってるんだろう。最近はこれが崩れつつあるみたいであちらもいろいろ試行錯誤なさってるようですが。私が半分冗談半分本気で言っている「OSKのファンは153人」というのがありまして、それは「劇団員を我が子か、教え子か、クラスメイトのように把握していて、クラスの行事=公演とか桜まつりとかDVDなどのグッズ購入には喜んでかめんどくさがってかはともかく、参加しないといけないと思っている人=ファン=153人」という説なんですが(考えれば考えるほど「これしかない!なんとうまく割り出した人数だ」と自画自賛したくなる人数である。まあ実際は213人ぐらいはいるだろうが)、そういう人たち(もちろん私もそう)にとってはこの世界館公演は「良い公演だった」と言えるだろうし、意義もちゃんとあった。

が、これが初見の人に「わあ! またこの劇団を見よう!」と思わせる力があったのかと言われるといきなり心許ない。

はじめて舞台を見た人が何に感動するかは人それぞれちがうんだけど(関係ないけど、人それぞれ、って言葉はキライだー。何かの免罪符か、相手を説得するのはめんどくさいと言ってるか、他人を尊重するような顔しながら実は人のことを人とも思ってない、ような気にさせられる。だからあんまり使いたくないが)、「わあキレイ!」「わあすごい!」の二つの感情がモトではなかろうか。宝塚はそのとんでもない劇場のスケールと舞台装置と衣装で人をぶちのめしたり、とんでもない長身細身足長の「男役」なんてものが人をぶちのめしたり、たまに異様に音楽が良かったり芝居の筋がよかったりして人をぶちのめしたり、する。他の舞台は、有名芸能人の主演とか客演とかで「あのスターの●●さんが生で!」的な俗情により人をぶちのめす。

内容(演ずる人)を知らずに見にいって「すげえ!」と思わせることがOSKにはできるか。それを「群舞の力によって達成」してたってことになるのかなあ。作品は明らかに(今回の話ではなくて。あと松竹座南座はちょっとおいといて)「いいのかこれで」っていうのが多くて、衣装や装置はあの有様だし、音楽はいいのがあるが使い回しばっか、となると「稽古で群舞」という方向に逃げるのもしょうがないのかもしれない。逃げる、なんてひどい言い方をあえてしたのは、前から言ってる通り「群舞のOSK」なんて言えるほどうまくないだろうと思うから。いや、エンドレとか闇の貴公子とか2004年以降の松竹公演やアピオとかの全体公演のDVDを冷静に見てると「複数(3人ぐらい)のものすごくうまい人がひっぱる群舞」で、あとは一生懸命やってるけどそんな言うほど揃ってない。こないだのNHKでやったダンスコンテストのほうが決まってるし、テレビでちらっと見たシカゴのほうが群舞としてはよっぽど揃ってた。キモチわるいぐらい。ブロードウエイなんかは群舞となると身長から体型のバランスに至るまで揃えるっていいますので、そこまでやると「うわすげえ」と人をぶちのめすであろう。OSKはそういうのではないと思う。そんなダンスマシーンみたいな集団ではない。

宝塚歌劇団よりも規模が小さい女性だけの歌劇団だとすると、OSKが目指すべきところは「劇団員の魅力で売る」だろう。これは「親や先生や同級生や先輩後輩」を増やすということではなくて、「わあ素敵(わあきれい)(わあかっこいい)(わあせつない)(わあ……他多数のプラスな感情)」を喚起させるということ。他の人がどう思おうが私にとってこの人はスターでアイドルだ!と思わせること。これは少し話が違ってくるかもしれないが、今のOSKの劇団員とファンとの関係も、スターとファンじゃない。親か先生か同級生か先輩か後輩だと思う。OSKはファンとスターの距離が近いというのはとてもいいことだけど、これだと意味が違う。スターだと思ってないんじゃ意味がない、というよりも害悪のほうが大きい。宝塚みたいに近寄れないとかいうのはバカバカしいが(スターさえよけりゃいいじゃんと思う。というか、あの統制を「私設の会」が管理してるから腹がたつんだ)、ファンとスターが近いというのをOSKの良いところとするのなら、それはあくまでもスターとして敬う気持ちがあればこその話だ。ファンとして、下品なことはしたくないではないか。

演出の石橋さんは、OSKを好きだし劇団員をよく知ろうとしているし、知って好きになっている人だと思う。その好き方(舞台でその劇団員の魅力を活かす、という方法によって表現される)は、多少ベタなとこはあるけれど基本的に品がいいし、これはたいへんにありがたいことだ。でも、今回みたいなショー作品をつくる時に、いったい何をどうやって魅力を出させたらいいのかわからなくて結果、総花的なことになってしまってる気がする。えーとつまり、石橋さんには芝居を頼むべきだと思う。というか、石橋さんに限らず、OSKは芝居やるべきだと思う。それも、「今回はこの劇団員のこんな魅力を見せる」という方針を立てて。歌と踊りはもちろん一緒にやればいい。でも歌と踊りだけで「わあ!」と思わせるのは松竹公演ぐらいじゃないとムリだろう。というか松竹公演でだって難しいと思う。武生はちょっと違うかもしれない。武生は好きだけど、あそこは「客が見ていなくてもやる仕事」だと思う。できればやりたくない仕事だがしかしやらないわけにはいかない。近鉄時代は和倉やハマブランカとかがそういう仕事だったわけだが、存続以降はそれがなくなって、武生クラスの、まあちゃんとつくってある(……うーむ、それもちょっと)舞台がそういうものになったというのは、それだけでも存続した意味があったと思う。

ショー劇団、レビュー劇団にこだわっているのは間違いだ。

追記)
これだと「どうしてショーがダメで芝居ならいいのか」という説明がない。……しかしうまく説明はできない。「ショーは音楽がいいと満足できてしまう」のと「人海戦術でなんとかできてしまう」のが「劇団員の魅力を最大限に発揮させる」と結びつかないと思うからではないか。それに「音楽のいいショーなんてめったにない」「その人海戦術がそれほど……」だし。それから、芝居のほうが演者を覚えやすいっていうのはある。それに、自分自身で考えて「アーティストのライブやコンサート」は見にいっても「ショー」を見にいこうとは思わないから。

追追記)
はじめての人を呼ぶ時に「よく知らない人たちのショー」ではあまりに訴求力がない。「●●(作品名、役名)をやる」といえばわかってもらいやすい。で、「ダンス」や「歌」では呼べるレベルじゃないと思う。それは演者の努力の問題とは別のところで(演者の努力の問題も大いに問題にしたいけど)。

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