A型は日本人に多い

(承前)
2003年の武生公演て、私が大ちゃんに大ハマリするきっかけの公演なので、
(それまでもファンと思ってたしそう言ってたけど、5回公演があったら2回か3回行くぐらいだった。1ヶ月公演だったら週末に通う、程度。その証拠に、この武生公演、初日も最初の土日も観にいっていない。最初の土日は京都の晴明神社で歌劇奉納『安倍晴明』があってそっち観にいった。桜花ちゃんが安倍晴明。&若木葛の葉、萌ちゃんがナントカいう式神。吉津さんが蘆屋道満。ところで、この時の振付が、山村若有子先生のOSK初振付だそうですよ。そうかー若有子先生の初振付を観てたのねー。それで、この武生の初見が2週目の土曜日。「がーん!」となって、それ以降は「大ちゃんの出てるあらゆる公演すべての回、何があっても行く」となった。武生だからそうもいかなかったけど、こっからエンジンかかったな)
忘れられない公演で、大好きー!……と言いたいところだけど、これ、ショーとしては「なーんにも考えてない。アリモノの曲をつかってありがちな場面を武生仕様に並べただけ」だと思う。新味があるとしたら幕間トークが大貴誠! 公演座長自ら! だったことぐらいで、それは「とにかくこの次の春、松竹座公演を実現する!」という気合いだったのであろう。

その気合いは出演者みんなにみなぎっていたし、何より解散後にまたOSKの名前で武生で長期公演やっているという喜びも満ちあふれていたし、あの公演の大ちゃんはすげえキレイでカッコ良くて可愛かったし、着流しのソーラン節ではクスリでもヤラレたごとく体が中から震えましたもん。オープニングがチョンパでやんしき総踊りで、阿波vsリオのひょっとこ踊りがあり、民謡メドレーでガンガンくる。洋舞は白燕尾の総踊りに、スパニッシュがあり、若手男役のサティスファクションがあり(こんな時からやってんだ。ということはこの十年前ぐらいからやり続けてんだろうな、若手男役の場面として)、ラテンがあり、高世がロケット前の歌手で、ロケットには櫻子ちゃんもことりちゃんも入っている。
こう書いてると名作みたい。で、も、やはり、これはちゃうよな……。

いくら振付がかっこよくても、出演者がかっこよくても、音楽がかっこよくても、それだけじゃただの「場面集」です。

たとえば今年の武生の洋舞。
最初から評判も良くて、これを日生に持っていってもいいのでは、なんて声も聞いた。それで見てみたところ、確かにかっこいい振付で、あんまりださくない衣装で、音楽もあか抜けたのを使ってたが……これは個々の場面をかっこよくすることしか考えてないと思わされた。結果かっこいい場面ができたが、それだけ。典型的場面集ショーなのであった。これを日生に持っていったら(ボリュームからいって持っていくわけがないが)(でもこれのボリュームをアップしてもこういう場面のつくりかた並べ方をしていたら)劇場全体にスッカスカな空気が流れるだろう。それでも難易度高い振付でかっこよく踊るならオッケー、という考えもあるが、それを言うなら今のOSKのダンス力はそれで魅せるほどはない。残念ながら。

別に場面が気に入ってんだからいいだろう、というご意見もおありでしょう。私も以前、OSKを守らねばと思う余り「そんなら場面すら気に入らないショーのほうがエエんかアンタは、エ?」とか言ったりしたもんですが、ひどい論理です。そこで出してくるなら「場面は気に入らないが一場面一場面が重なって大きく密度濃くなっていきクライマックスには瀑布のごときパワーが降り注ぐショー」とくらべなきゃ。演出って、つまり、そういうことなんです。それができるかどうかが、演出の力。そういう例を出したら場面集が負けるってわかるから、出せないわけですよ。ずるいねー。当時の私に今の私が「これ作品としてイマイチ」と言ったら血を見るケンカになったことであろう。

今やってるオセイリュウのショー、私を色と欲の旅に連れていってくれる劇団員は出ていないし、使ってる曲もそれほど「だいすきー!」なもんでもない、場面だけ切り取って見れば65点ぐらいなのに、オープニングからフィナーレまでの流れの渦が美しくかつダイナミック。ショー全体が「生きた人間」みたいに息づいてなければ「付属の養成所を卒業した未婚の女子のみの劇団が演じるショー」がやる意味ないんじゃないの。

2003の武生や今年の武生みたいなのは場面がいいからまだマシだともいえる……ってのが哀しいが、ほんとに、「なああーーーーんにも考えてない」「場面もぼんやり」「すかすか」なショーってあるんですよ。というかふつうに多い。ここ最近のOSKでいうと『ADDIO』と併演のショー『Dance of Joy』なんかそれ。劇場で『ADDIO』でぽかーんとなった後はこのショーで力抜けた。いちおうショーとして独立したものをつくるからには手間もヒマも金もかかってるはずだが、手間もヒマも金もまるでかかってないようにしか見えない、甲斐のないショーでした。あんまり潤沢な資金もないんだろうからそういうムダ使いはやめてもらいたい。でもこれぐらいダメなやつだと、わかりやすいからかえっていい。

ということで、私がショーにおいて主に問題にしているのは演出およびその演出によって何が実現されたか、ということだということがおわかりいただけたかと思います。ここを基本として、松竹座南座公演について考えていた時のことだ。(つづきます)

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