ツクヨミ大衆演劇問題
2016年の日記読んでたら「楊ちゃんの舞台姿(見た目)が若丸に似てる」って書いてた。若丸とは都若丸。大衆演劇の『都若丸劇団』の座長。なるほど。2016年に似ていて、今はどうなのか。タイムリーにそんな日記を見つけたので、「『ツクヨミ』は大衆演劇っぽいのか」について書きたい。
大阪松竹座での公演中、『ツクヨミ』を見た人が、チラホラと「大衆演劇ぽい」という感想をつぶやいているのを見て、私はすぐこう言った。
ツクヨミは大衆演劇ではないということを言っておきたい。いずれ説明したい。 #ツクヨミ
— 青木る(えか) (@daikix) January 30, 2021
その説明をする。でもその前にまず、『ツクヨミ 〜the moon〜』の第二章以降について(第一章につきましてはこちらに書いてます)。第一章を見てたら大衆演劇ぽさみたいなものは感じなかったから、問題は第二章以降だろう。第一章は飛鳥時代のお話で、大衆演劇で飛鳥時代の芝居ってあんまり見ないからね……って、そういうことじゃない。
幼い頃に出会った梵天丸(のちの伊達政宗)とクニ(のちの出雲阿国)。片目をつぶした梵天丸と、生まれながらに赤く輝く髪を持ったクニ、ふたりの、美しく可憐な被差別者が心を通わす。クニの赤毛は「まつろわぬ民」性も表現してるんだろう。
クニちゃんは手に持っている月(丸くて中からぼーっと光るマリぐらいの球体。なんかの象徴)を梵天丸に「あげる」って言う。持ってたのはコレだな。
「これはきみのもうひとつの目だよ」って意味、たぶん。でもここさー、「あげる」って言ってからクニちゃん、渡しそうになって梵天丸も受け取ろうと手を伸ばしてんのにいつまでも手に持って歌って踊ってるんで「あげるんじゃねーのかよ早く渡してやれよ!」と思いながら見てたんだけどまあそれは置いといて、いきなり時が経って太閤秀吉の紅葉狩(今思ったけど、どうして花見じゃなかったんだろ)。そこにすげえ巨大に成長したカブキ者の伊達政宗が、
と登場! 首にはヘッドホンかけてギターぎゅんぎゅんのロックで踊りまくりだ! 心優しい梵天丸と別人だよ! いったい何があったんだ梵天丸に! 世界観いきなり変わってるし!(画像はステージナタリーよりお借りしました)
政宗が紅葉狩の席で大暴れしてると、成長して出雲阿国となったクニちゃんが、なぜか伊達政宗を騙って登場! 髪の毛赤かったのに成長したらふつうになってきたのか! そのちょっとだけ赤い頭にでっかい三日月の前立てつけて、仮面舞踏会みたいな洋風仮面つけて政宗と「オレが伊達政宗だ合戦開始」! なんだそりゃ! このあたりの説明も何もない! クールでいいけどやっぱわかんねーよ初見じゃ!
曲はX JAPAN的なバスドラ連打系ヘビメタに変わり、だだっぴろい舞台の上で政宗と偽政宗(阿国)が激しく連れ舞を繰り広げます! なんかこう、阿国が挑発してるんだな、政宗を。「オマエはほんとうに強い男になったのか。オマエはほんとうに伊達政宗にふさわしい男なのか」みたいなさ。んで政宗が「なにおーーっ!」てやってるうちになんかふたり組んずほぐれつ、偽政宗阿国は仮面をかなぐり捨て、政宗は眼帯をむしり取り、「ひとつになってー!」「愛したいー!」「ケモノのようにー!」「あーいーしーてーるーーー!」とか叫びながら押し倒したりしている。こ、これは……。最後はふたりでガバッとキスして暗転。
ここも初日は場内ボーゼンでした。いや、こういうのは最後にガバッとキスシーン、ってのはじゅうぶんに予想範囲ですが、そんなんじゃなくてこの展開のすごさ。「ズバババババババ ズバババババ」をバックに二人がガンガン全力で踊ってる。ものすごい熱演である。可憐な、よるべない少年少女がどうしてこうなった。
と、このような第二章だったわけだが、私が見たところ「もし、ツクヨミに大衆演劇ぽさがあると言われるとすればココかな」とは思った。前置きが長くなりました。ここから大衆演劇の話です。
まず前提をいくつか。私は大衆演劇をどう思っているか。大衆演劇の劇団がやる大衆演劇はいい。すごいいい舞台がある。いっとき通っていくつかの劇団を見たことがあり、好きな役者は何人かいる。でも大衆演劇ではない劇団の舞台に大衆演劇の香りが混入するのはイヤだ。OSKが大衆演劇っぽいと言われるのもすごくイヤである。
でも、「イヤだから」は「ツクヨミは大衆演劇ぽくない!」と言い張ってるんじゃないのだ。「大衆演劇っぽいOSKの公演」てのはちゃんと存在するので(それはまたいつか)、「『ツクヨミ』はちがう」という話です。
では「大衆演劇っぽい」とはどういうことか、という説明が必要になってくる。私の考える「大衆演劇ぽさ」というのは、
「大衆演劇スピリット」
の二大要素が必要なんですよ。どちらが欠けてもだめ。で、どっちかっていうと「スピリット」のほうが重要。なんだよそのスピリットって。端的にいえば、「ホンネとタテマエ」でいったら「ホンネ」、上品か下品かでいったら下品。愛か金かといえば金。ひどいこと言ってるようですが、あくまでスピリットの問題で(もっとひどいか…)、生活力や生命力、繁殖力はあふれるばかりにあってどんなことがあっても生きていく強さはあるんだ、そのスピリットは。生き方の問題であって芸能としての良し悪しを言ってるんではない。
『ツクヨミ』の第二章、ギラギラの着物に洋風の装飾、カラーの入った髪、そしてヘビメタというかビジュアル系で、あたかも性交を思わせるような(あくまで象徴的に、だが)日舞、このあたりは確かに大衆演劇の外観に寄っている(でも大衆演劇でまともな日舞を舞う人ってほんとにめったにいないからこんなに踊ったらびっくりだけど)。しかし、
政宗と阿国に大衆演劇スピリットなし。
友だちが都若丸ディナーショー見にいったら、楊ちゃんが客で来てたって言ってたんで楊ちゃんは大衆演劇観にいったことはあるはずで、楊ちゃんが都若丸に(見た目が)似てるなあと思った時も、あー若丸好きなんだな、たしかに若丸かっこいいもんなと納得した。で、楊ちゃんの見た目が大衆演劇の役者に似たからイヤだと思ったかというと、べつにそうは思わなかったんですよね。(写真は若丸さんです)
その時はなんでそうなのか深く考えなかったが、今になってはっきりわかるのは「楊ちゃんに大衆演劇スピリット属性がない」ということ。
楊ちゃん以上に大衆演劇スピリットがないのが桐生麻耶で、この二人がいくら表面上で大衆演劇っぽいことをやっても、たとえばラメ着物でど演歌をフルコーラスあて振りで歌って、間奏部分で客から一万円のレイをかけられたりしても、スピリットがないから「ちがうもの」にしかなり得ない。せいぜい「大衆演劇のコスプレ(笑)」。『ツクヨミ』をつくった尾上菊之丞先生も、だから安心してこの場面で桐生、楊にこんなんことやらせたんじゃないでしょうか。大阪松竹座も、大衆演劇と親和性が(一見ありそうで)ないハコなので。
(逆にいえば、黒燕尾でクラシックで踊ってもスピリットさえあれば大衆演劇になるということだ)
ということで最後に、墓所改葬の折発掘された伊達政宗公のしゃれこうべの写真とともに「ツクヨミ大衆演劇問題」を終わらせていただきます。この骨を調査した東大理学部人類学教室鈴木尚教授によれば、「額の広い鼻筋の通った面長の美男子であったと思われ」とのことです。まだ第三章のこと書いてないぞ。続きます。
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