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少年のナイフ

疲れた。

今年の南座公演は疲れた。すげえ暑かったってのもあるが、内容で疲れたというほうが大きい。それにしても暑い。今までの南座史上でいちばん暑かったのは2011年の虹のおどりの時で、体感としてはあっちのほうが暑いというか熱いぐらいだけど、今年の南座は40度とかいうことで、きっとこっちのほうが熱いんだよな。熱いとかいうとまるで「HOT!」みたい。いいことみたい。よくないんだぜんぜん。2011のよくなさと2013のよくなさは理由がちがう。

ジワジワとくる衝撃は、今年の春の洋舞より南座の二部のほうがいいという人がいることだ。何人もいる。その理由は人によりけりなのだろうが、「ショーのつくり」を問題にする人がいて、これについて考えた。

ショーって何。場面を並べるとショーなのか。テーマがあるとショーなのか。歌って踊ればショーなのか。空間の使い方がいいとショーなのか。

私の考える「ショーというもの」にいちばん近いのは、「宝塚の一本物ミュージカルのお尻にくっつくショー部分」。ええと宝塚というのはこの際関係なくて、たまたまたOSKでそういうタイプのを見てないのと、他を知らないから例に出しただけです。たとえば『エリザベート』で、本編のラスト、トートとエリザベートが昇天したら、さっきどっかに消えたフランツ役の男が、フランツとは似ても似つかぬカッコでせり上がり、トートの持ち歌『愛と死のロンド』を歌ってショー部分スタート、という。このフランツ役の男が何者なのかわからないし、フランツは愛と死のロンドには無関係なのにもかかわらず歌う、そこで客はいろいろな感情が喚起されるわけです。そのあとも本編の音楽で群舞やラインダンスやデュエットダンス。場面場面につながりはないし、出てくる人は本編と無関係な顔で無関係な衣装で、しかし見ている人は曲の意味合いを勝手に忖度し、大きなうねりを勝手に感じ、その曲を誰が歌うかということでも勝手に思うところがある。そしてパレード、うわー、大団円。

別の例を思い出した。マンガ『覚悟のススメ』のラストシーン。これはとんでもない殺戮ばんばんの肉体戦闘マンガでありますが、ラストシーンが、……ダメだ私では到底説明ができない。肉体戦闘マンガだけどラストシーンはいきなり「エレクトリカルパレードのような」と作者がいうような世界に変貌して、登場人物たちが花びらが舞い散るようにソーダの泡がはじけるように泉が湧き出るように色とりどりの光が降りそそぐように、画面いっぱいになるという、これも私にとっては理想的な「ショー」です。

こういうのを、本編なしの単独ショーで表現できないものか。

と考えるぐらいなので私は「ショーには、そこに一つのテーマなり物語があったほうがいい」と思っています。ただ、上記みたいな理想のショーは、本編がないとたぶんムリ。本編がなくても、誰もが知ってる話やニュースや音楽で……としてもぜったいムリ。そこでひらめいた。庵野秀明が学生時代、課題でコマーシャルフィルムをつくる、ってのがあって、コマーシャル本編のための「番組」もつくったという。あくまで「コマーシャルを見るための、番組」。ショーを本編としてみるためにミュージカルをつくって前モノとしてくっつける。でも、まあ、こういうのってたいがいつまらんものになると相場は決まってますが。

ええ、そんな小細工しようがしまいが、テーマのあるショーってだいたいつまらんのですよ。テーマを設定するとそれに縛られてつまらない整合性を追ったりしちゃう(『びーおんざろーど』とかー)。縛られずにやったとすると統一感の欠けるのが目立つ。今まで見たことあるショーでテーマがあってうまいことできてたのって『桜舞橋』ですかね。テーマががっちりあるのに縛られず自由にショーが展開してた。『なにわ祭り抄 躍る道頓堀』と『ハッピーゲーム』は好きな作品だけど少し強引なとこがあった。強引だっていいと思うこともあって、横澤先生はテーマ決めてテーマからはずれてもまったく意に介さないというそのへんの器の大きさが、作品も大きなものにしていた。テーマショーをつくるときの秘訣かも。でもその天然な器の大きさ持ってる人ってめったにいない。今回の二部って、悠浦が見えないハコにはまりこんだマイムみたいなもんで、「気持ちはわかるけど……アタマがぶつかったとこと、手でさぐってる場所が明らかに違ってんだけど」というものでした。あ、オープニングにあのマイム持ってきたって、これはこういうショーですよ、って意味だったのか!(違)

一徳先生のショーは、テーマじゃなくて型。アミューズ、前菜、スープ、魚料理、肉料理、デザート、チーズ、コーヒーとプチフール。材料変えるけど「必ずコースの順番は決まっています」。へたにテーマ決めてグダグダになるならそれで行って、と思う。でもこのスタイルを変えないのって、容易なことじゃないよな。何かやってみせたい、という娑婆っ気が抜けませんもの、作り手って。で、それがなくてもどうしようないわけで。

春の洋舞は、コースでもないし、テーマがあったとしたら「OSKによる、OSKの最大限発揮」で、それを実現するために与えられる、一種の療養食みたいなものだったかも。ダンス発表会的だという意見も聞きましたが、OSK最大限発揮発表会とすると、確かにそうかもしれぬ。私はカールのカレー味、亀田のカレーせんをはじめとするあくどい食べ物も愛しますけど、春の洋舞は、まあ、食べたら血が綺麗になって、目が冴えてしまったような感じがしました。今回の二部をほめる人で、春の洋舞よりよかった、という人はきっとそのへんが物足りなかったんでしょう。私はあくどい食べ物を愛す者として、今回の二部みたいのじゃ物足りないです、といいたい。


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