re-蜜柑

何日か前に「宝塚はいかに人から金を引き出すかで動きOSKはいかに自分の金を使わないですむかで動く」というようなことをつぶやいて、それからずっと考えてるんだが、どっちがマシかとかどっちもどっちとかそういう話ではなく(そりゃカネ引き出すほうがマシだよどう考えても)、いかに自分の金を使わないですむかで動く、という団体で育ってきた人間がどんなふうに育つか、という話。

ま、ふつうに考えて「ケチ」になりそうだ。ケチというかセコイというか。「別に金かかるから演出家頼まなくてえーやん」という(一例ですが)、聞くも涙の(しかし言ってるほうは別に悲しがっていもないというのがさらに哀しい)制作態度がふつうになるという、これは実にふつうでない有様だ。そういうふつうでないことやってると結果はどんどんしょぼくなっていく。

が。何かをつくろうというような人間の世界では「自分をいかにフツーでなくすか」ということが一大アイデンティティになってることがあって、それはそれで「人と違うことやってみたらそう思ってやってる人たちいっぱいとまるっきり同じ」という恥ずかしいことになるという、よくある結末が待ち構えてるわけだけど、たまにうまくいく場合もある。というか「自分はありきたりではいやだ」という気持ちってものすごく重要だと思うんだけど。だから歌劇団として「ふつうじゃない」運営の中で育って、「解散」というふつうじゃない事態で思わず飛び出てきた「人」が「良きにつけ悪しきにつけ」ふつうじゃなかった、その人が大ちゃんなんではと思うのだ。たとえば大ちゃんが「ふつう」の集団の中にいたら、ただメインストリームからはずれてそのままどっか行っちゃっただけだろうが、OSKがふつうじゃなかったので、大ちゃんのふつうじゃなさ(有り体にいって「非常識」だなー)で存在感を発揮できたし、解散騒動で先頭に立ったらもう「常識通りのやり方なんかしている場合じゃない」から非常識でガンガン行けたし、それだけじゃない、OSKのいちばんの商品である「作品」をつくるということについても非常識をさらに発揮した。

宝塚の劇団員を個人的によく知らないから「歌劇全体がそうだ」とは言えなくてこれはOSK個別の問題なのかもしれないけど、と前置きした上であえて言う。歌劇やる人って「自分でものを考えない」人が多い。多いというか、全員そうだ!と叫びたいぐらいだ。ものを考えずに、言われたことをやるだけ。もちろんそうじゃない人がいるのも充分わかっております。おりますがあえて言い切りたい。歌劇というものが様式美を追究するものだという性質上、そこに憧れて入ってくる人は「先人の歩いた美の道を自分も」という気持ちなのはわからないでもないけど、私は歌劇を「気味の悪い演劇、というものを気味悪くなく見る装置」として入ってきたので「ワダチのあるところにだけ人が歩きそのワダチがどんどん深く固くなっていく」有様なんて退屈極まる。いやだからそれはあえて決めつけて言ってるわけだけど。というのは以下「大ちゃんはめちゃくちゃながらも自分で考える」「大ちゃんは自分で考えることが楽しい」「大ちゃんは考えない人から理解されないし大ちゃんは考えない人を理解しない」という話にもっていくため。

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