ラストショーについて(前書き)

日生劇場のOSK日本歌劇団『春のおどり』が終わりました。
二回しか見られなかった。ほんとは一回(土曜の夜の部)しか見られないはずだったんだけどなんとか千秋楽を日帰りで見にいって、二回観た。ムリしても二回観てよかったです。一回だったら誤解してたかもしれない。

1回目見終わった時は「……。うーむ」となってしまい、なのに周囲の評判というか「OSKスゴイ!」という声などが聞こえてきて「……。それはちょっと」という気持ちでいっぱいで暴れそうだったけど、一日おいて2回目に見て、気持ちはすっきりと落ち着いた。意味とか理由がわかったので。ああ、これは「OSKスゴイ!」と言われるのは、よくわかる。

この日生公演、2004年の松竹座『春のおどり』と、驚くほどよく似ている。作品の内容がじゃなくて、公演の“置かれた位置”というか、公演を“取り巻く空気”というか、舞台の上から“発する空気”とか、公演のクオリティとか、そういうものがすごく似ている。そのことに気がついて、ものすごくすっきりした。

今まであまり目立たず、苦労してやってきた劇団が、がんばってがんばって、格の高い大きな劇場で全員の公演を打った。そのことを知って、初めて観にきた客がたくさんいた。今まで観たことのないようなステージで「すごい!」という人もたくさんいた。元からいたファンは、とにかく盛り上げたいので、ポジティブな感想をガンガンあげる。みんながにっこり笑いながら、できるかぎり後押しをしてあげたいな、と思っている。心がひとつになっている。

……公演をとりまく空気というのはまさにこれ。2004春・松竹座と2013春・日生は、こういうところがほんとにそっくりです。思い返せば2004年の私は、相手が引くほどOSK(当時はNewOSKと言いましたが)のことを話題に出し(スポニチの競馬予想コラムにまでOSKのこと書いてた)、人を誘いチケットをプレゼントし、ブログで感動を吐露しまくり、多少でもネガティブな感想があると聞けば出かけていって議論を申し込み(というより難詰しに行き)、とイタイことやってたよなー。日生のあと、ネットに出てきた「OSKよかったー!」という感想に最初は「……何みてんだよ(-_-)」と思ったもんですが、ふと思い出した。私がむりやりチケットあげて誘った人は、その後強烈に大貴誠ファンとなり、そのアグレッシブな姿勢から「OSKファン界の狂犬」とまで呼ばれるまでに成長した人ですが、その人も最初に2004春を観て「OSKおもしれー!」って書いてたなあ。その「おもしれー!」の感じは、今回の日生公演を観て「OSKすごい!」「こんな日舞はじめて!」「おもしろい!」って言ってる人とそっくりだ。

そこが始まりだ。そこから進んでいけばいいのだ。

ということで、作品については不満が残るところがある。今回の日生の演目、日舞、洋舞をそれぞれ100としたら(点数じゃなくて、割合を表現するために仮に設定した数字です)、今までの松竹座公演で最高によかった日舞は250、洋舞で150ぐらいを叩きだしてるものがある。それを知っているので、私としては「こんなもんじゃない」と叫びたい気持ちでいっぱいである。ぞくぞくする、どきどきする、体の中からガクガクふるえてきてじっとしていられなくなる、という作品がOSKにはある。そこにプラスしてキュートさと一片の切なさ。そういう作品が出てくると私はもう、悦びでいてもたってもいられなくなるのだが、そこまでの作品ではなかった、これは。

ただ、そういう「すばらしいOSKの舞台」なんて三割あれば首位打者になれるぐらいのもので、めったにお目にかかれるものではない(とはいえ2007年までの松竹座ではそういうものがいくつも観られた)ので、そこに至らなかったからダメというのも酷な話だ。たとえば『JUJU』や『桜NIPPON』や『バーンザパッション』とくらべればずっっっっと良い。あの近鉄時代っぽい安っぽさというか趣味の悪さというかアカというか、そういうものとは無縁。この「清潔さ」は、2004年春のおどりで私は初めて見せてもらったものかもしれない(だからこそ、最高傑作じゃなくても、全力でホメ讃えることができたのだろう。いくらホメねばならぬという状況だったとしても、あれが『エンドレ』みたいなもんだったとしたら全力はつらかっただろう。必死で全力出しただろうが)(いや、でも、あの状況なら『エンドレ』になるはずはなかったな。だって大貴さんがいたんだもん)(って、そこの話をすると長くなるのでやめます)。品の良い、丁寧な作品である。スリルとサスペンスとセクシーさの3Sが欠けていたが、充分な良作だ。ただし、これを100とするなら、250の作品をOSKは見せることができるはずだ、……ということは、常に申し上げておきたい。

さて、今回良作であった、ということを前提に話を進める。

日生劇場で初めて観るOSKなのに、何か、すごく懐かしい感じがした。懐かしくてうれしいこの感じ。胸の中に、呑み込みきれないカタマリのようなものを抱えつつ、晴れがましいような気持ちで劇場を出る、この感じが……ものすごく懐かしい。春先のこのぬるんだような陽気の中で、なんだかぽーっとなってくるようだった。
この日生劇場で、暖かい目でOSKを初めて観て、OSKおもしろい!という方がたくさんいただろうな、ということがすんなりとのみこめる。
2004年春もそうだった。あの時に「OSKはおもしろい!」「OSKはすてき」と思った人はたくさんいた。今回のように。

しかしだ。

ほんとかウソか知らないが、「結局、松竹座公演でいちばん客が入ったのは2004春だった」という話がある。公演数が違うし、どうやって比較してるのかわかんないが、なんとなくわかる気がする。
2004年春の松竹座公演のあと、自主公演でその時につかんだ客をさらにがっちりつかんで熊手のようにかきあつめて固めて地盤にしなきゃいけなかったのに、あの時のOSKはそれができなかった。興味を持って世界館とか観にきた人が「うん、よかったよ」と口では言っても次は来るのをやめてしまうような、あるいは言葉もなく姿を消してしまうような、そういう作品を出してしまった。OSKの自主公演というのは、松竹の公演とくらべると、あからさまに低予算である。今回の日生を見て「衣装が安い」とか「セットが……」という感想を見ましたが、あれはOSK的には「豪華」なんです。松竹公演で安いといってもそれは単に値段が安い、ということでOSKの自主公演の場合は値段以上にセンスが安いです。ダイソーセンスです。ダイソーの店内みたいな色合いとデザインです。予算がないから、センスで工夫、という方向に行けないのが近鉄から引き続くOSKの弱点なのだった。OSKがいったん解散してNewOSKになって、そこのところをなんとかしようとがんばってはいたが……力尽きてしまった。2004年以降(現在に至るまで)、自主公演で「ファンを掴める可能性」「人様に堂々とお見せしてもいい」作品て、『バロン』ぐらいじゃなかろうか。あとは「ご贔屓の顔だけ見てガマン」「ファンだから必死に通うしかない」「あいたたたたた」「……ヤル気を失わせる」ような作品を、よくもまあというほど繰りだしてきた。
そして、頼みの綱の松竹公演も、ずりずりと、下がって、きていたと思う。そりゃ、観客動員も下がっていくでしょう。その状況に私は腹を立てていました。

今回の日生劇場公演で私がいちばん「よかった」と思ったのは、劇団員の必死さ、でした。

ひさしぶりに見たよこの必死さを。ほんとにひさしぶりだ。2004年春、秋、2005年春、までは確実にあって、そのあと徐々に失われていった「必死さ」。「松竹座という素晴らしい劇場で公演をするのだ」という緊張と喜びと恐怖。そういうものがさいきんはとんとなくなってしまい、チョンパで照明ついたら総踊りで扇の位置はバラバラ、着物は着崩れるわよれよれだわ、隊列の間隔もまちまち、鴨川の河原に座ってるカップルのほうがずっと等間隔だ、という有様で、いい加減にせーよ、と怒っていたら、日生劇場ってのはたいへんなもんなんですねえ。劇団員全員、上から下まで、緊張感に満ちあふれ、隅から隅まで鋭い針のようなものがぴしっと貫いているではないか。場内が暗転して、「はーるーのーおどりーはー」の声が震えていて、松竹座でそれやられたら「なんのツモリだ!」となるが、日生では笑いながら「がんばれ!」と思った。「よかったね、そんなになるぐらい、すごい劇場で公演をやってるんだよあなたたちは。そんなすごい劇場の中で、輝く照明を浴びて、もっと輝いてるよ」と言いたくなった。

それがもっともよく現れていたのが『鶴』で、私は去年の春に『鶴』を見て、何がいいのかさっぱりわからなかった。親鶴は力みすぎてるし子鶴はバサバサだし、日生で『鶴』をまたやると聞いて落胆していたのだが、今回見たらちゃんと鶴だった。親も子も。去年よりも子鶴の学年は下がったはずなのに、今年のほうがきれいで揃っていたってどういうことだろう。それはきっと、最下級生まで緊張感が行き渡っていたからだろう。良い緊張感が。緊張のあまり揃う。ふつうは逆だと思うんだけど、良い緊張感てのは、人を美しくさせるんですねえ。

しかし私は2004年からの流れを見ている。緊張感を持続するのはたいへんなことだ。でも、持続してくれないと劇団は崩壊する。残念な話だが、OSKの自主公演には期待が持てないのだ。予算もない人材(製作の)もない時間もない安易な公演をやって日生で「OSKって」と思った人を遠のかせないでほしい、けれど、きっとそういうことになってしまう(予想がはずれることを祈る)。それならばせめて松竹座や南座、そして日生劇場の公演が来年も続くとしたら、この四日間の張り詰めた緊張感を、維持してくれなくては。2007年は『バロン』が花火のようにぽつんと灯り、そして春のおどりで、(状況を知っていれば到底信じられないような、驚異的な力をみんなが発揮して)(その力の方向はそれぞれバラバラだったのだけれど)すごい作品をつくった。そこまでのものを見せても、OSKはその年に民事再生するはめになったのだが。

今さら2004年を思い出せ、といったって老人の繰り言みたいでイヤだったんだけど、日生なら先週の話だ。老人の昔話ではない。この日生を忘れないでください。この必死な真摯な舞台じゃなかったら、誰がOSKを見てくれるというのだ。

と、ここまでが前置きで(長いなー)、公演の内容についての感想を書きます。

タンゴのさー、桜花高世のキスシーンだが。もうちょっと色気というものを出しておねがい。ちっともドキドキしない。薄汚くないのはいいが(って、それは当然のことだが)、トートツすぎて笑っちゃったよ。

みどりのこあらさんが「タカラヅカの、子役が好きでない」と書いていて、ふーんなるほどなーと思った。確かにあれは気恥ずかしいものがある。でも私が子役よりもっと気になるのは「歌劇における老人」だ! 『エリザベート』の夜のボートの場面で後ろ歩いてる老夫婦とか、OSKだと『女帝を愛した男』←間違えました『ADDIO』です、『ADDIO』の冒頭に出てくる老尼僧。なんかこう、子役よりもっと、見ていて気恥ずかしいものがある。いちいちあんなに背中曲がってなくてもいいんじゃないか。それとヘタなシャガレ声。あれは老人の記号だ、っていったって、十円ハゲの坊ちゃん狩りヅラに半ズボンのコント小学生みたいな記号じゃなくたってよかろう。もっとふつうにやってくれ。
……ということで、老スターの高世さん牧名さん、もうちょっと、なんとか。

さすがに長すぎるので、今回の公演で私がいちばん「どーん……」ときた場面については明日にします。

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