好悪と正誤

人の気持ちというのもその時の空気によって変わるもので、仮に『桜彦2』がどうしようもない酷評されていたら「何にもわかってねえなあ」と思って「2」の加勢を買って出るだろうし、絶賛されてたら「破綻してますけど」と水をかけたくなる。

許せんと思ったのは、グリッソムの映像が大スクリーンに映し出される場面。それを見ながら思い出したのがトーキング・ヘッズであった。トーキング・ヘッズというか、渋谷陽一。ブラックミュージックに傾倒したトーキングヘッズが、ライブで黒人ミュージシャン入れて大盛り上がり、なのを「黒人音楽がやりたいから黒人連れてきてそれで解決かよ」と渋谷陽一が怒ってた話だ(大意です)。ほぼ同じ構造の怒りを私も抱いた。あそこでスクリーンを出す意味は何だ。舞台転換の都合か。幕前でなんとでもできるだろう。グリッソムが花道スッポンでもいい。前の場面でスッポン出があるっていうならそっちを変えたらいいじゃん。黄泉の悪者の、この世のものならぬ凄味と大きさを表現するために、大スクリーンに大きな映像を映すって、それが解決策か。あ然とした。いくら効果的でもやっちゃダメだろ。その時に桐生さんが着替えでどうしても出られないってわけでもなし、生身の桐生さんを使っていかに大きさを見せるか、が演出ってもんじゃないのか。

しかしOSKらしさってのはなんなんですかね。ゆうべ一晩考えて結論は出た。私の考えるOSKらしらというのは、私の好きなOSKの作品らしさ、である。具体的にいえば『2006年春のおどりにおける洋舞』。あれがOSKらしい、舞台。

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