おまえのいぬになる*12

承前)
自分の好きなものを「すべていい」と思ってる人なんて少ないだろうが、大貴誠のファンをやってると「よかった」と「困ったことになった」の振幅はけっこう激しい。七三で「困ったことに」が多いような気すらする。舞台に素の「ダイキマコト」がふっと出てくるとすごく魅力的で、そのことは大貴さん本人もわかっている。いるのだが、実はわかっていないというか、大貴さんは「ダイキマコト」をコントロールできると思っているんじゃなかろうか。大貴さんがコントロールしたと思った瞬間にすでにそれは素ではなくて「舞台の上のふつうの大貴誠」だ。素は大貴誠の虚を衝いてふっと出てくる。水面に小魚がぴっと浮いてきてまたすぐ水中に消えるような。そういう時に大貴誠そのものは慌てているかぎょっとしているか放心状態かどれか。

トークに関してもそうで、大ちゃんのトークは「面白い」ということになっていて実際面白いけどそれが「どう面白いのか」については大貴さんが考えているのと聞き手とは違うと思う。「無意識のトーク」と「アクシデント」の時に思いもかけぬ面白いことがあるのは「素」の時と似ているが、それだけじゃなく「完璧にコントロールされたもの」が端正に美しいことがよくあって(例:2007年春のおどりのサヨナラショーにおける長いトーク。あれは台本なんかは頭の中にすらなかったはずなのに、完璧にコントロールされていた。いつもの大貴さんならグタグタになってもおかしくない。松竹座のサヨナラショーという舞台が大貴さんをして完璧にコントロールしてしまったのかと考えると、あれはすごい場所ですごい時だったんだなと怖ろしくなる)、ということは大貴さんが「自分でコントロールできる」と思っているということで、ある意味危険極まりない。

大ちゃんは自分の能力をわかっていない。
いい意味でも悪い意味でも。私は大貴誠という人には見たことのないような能力があると思っているが、大ちゃん本人が自分を恃んでいるところの能力とはたぶん別のところをすごいと思っている。(もちろん一致して「これだ」という部分はある。歌劇の人とは思えない趣味やセンスや知識はちょっと驚くほどのものがある)(そしてそういう知識やセンスがあるのに驚くほどそのことをふつうに考えているところなどは胸のすくかっこよさだ)

StudioZAZAにおけるライブ、昼の部と夜の部とがあって、昼と夜で歌う曲歌う順番は基本同じ。それぞれ1曲だけ「昼じゃないとやらない」「夜じゃないとやらない」曲がある。ただし昼と夜、同じ曲でもアレンジがまったく違う。それは木川田先生の案で、じつにうまいやり方であった。ただし音源を作るという意味では昼夜同じ曲にした意味はなくなったけど。
昼は「ライブハウスでロックっぽく」、夜は「サロン風にジャズっぽく」というコンセプトが出来上がった。
コンセプトがはっきりできると進みやすくなる。ただし、コンセプトが「ぼんやりと頭の中にあるけれどいざ言葉にしたり紙に書き出そうとしたとたん霧中となる」時が危うい。それだったらかえってコンセプトなんかなくて発表会状態にしたほうがマシなぐらいになったりする。ワケのわからない(しかし自分でははっきりしているような気がする)モヤモヤしたものに支配されたあげく、依存してしまうのである。……なんだか世界館とかでそんな感じのものをそのまま見せられていたたまれなくなったことを思い出す。(つづく)

美しい手と骨

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