Victoria!の整い方

ビクトリア女王

↑これはビクトリア女王。荻田先生に似てるような……( ・∇・)

書き忘れたのでちょっと『ツクヨミ』のこと。台詞とか歌詞の「日本語がとても端正」だったのもよかったです。へんな言い回しとか間違った言葉とかヤンキー耽美みたいな歌詞(どんなんだ)があるとほんとイヤなんだ。『ツクヨミ』はそのへんぜんぜん大丈夫だった。フザケた歌でも歌詞がきちっと韻を踏んでたりして手落ちがない。内容はぶっとんでても基本に文化と教養があるから安心して見てられるという感じ。偽政宗がスッポンからせり上がって、
 

我こそは権中納言伊達政宗!

 
っていうのがかっこよかったですなあ。これがHやみ先生だったらきっと
 

オレは政宗、クールな独眼竜!(爆発音)

 
とかしそうじゃん。あえて権中納言ってのがたまらんですねえ。でも伊達政宗が権中納言に任官したのって徳川家光の時代だから秀吉の紅葉狩りにそれ言ったら身分詐称だ、いいのか偽政宗。いいんだきっと本政宗に向かって「これはお前の将来の姿だ」とか言いたかったのにちがいないぜ。
 

『春のおどり Victoria!』

では春のおどりの第二部『Victoria!』についての話です。

すごく個人的な感想、というよりも思いなんだけど、私は2004年からの『春のおどり』をずっと見ていて、2007年春のおどり(第一部『桜・舞・橋by山村若』第二部『桜ファンタジアby横澤英雄』)が日舞洋舞ひっくるめて最高作、その後どんな作品が出てきても「2007年には及ばん」と思っている。さらに個人的、かつあまり理解されづらい感情だろうが「及ばんな」は同時に安心でもあったのですよ。安心? 安心というか安堵かな。「誰も2007年には勝てないんだぞ」という安堵。何かのファンをやってるといろいろなことを思うものである。2007年よりも良い『春のおどり』が現れた時(そしてそのことを私が認めた時)はきっと、「わが子が親を乗り越えた時」なのだろう。ファンてのはとにかくこんなへんなことを思い込んでいるんだ。

『Victoria!』はもしかすると詰め寄ってきた、いや乗り越えようとしてきているかもしれない、と途中で心が騒いだ。すげー。でも今はいくらか落ち着いた。たぶん「ついにオマエもオレのいる山の頂上まであと一歩だな、ふっ」。ああめんどくさい。

そんなめんどくさい私が評するにこの荻田浩一作演出の『Victoria!』というショーは「合ってる」んだと思う。「答えが合う」の「合ってる」。さいしょ「正しい」と書こうとしたが正しいというと何か政治的な感じがするので「合ってる」で。「松竹座で上演されるOSKショーとしてこれが合ってる。これが答えだ」って思った。

荻田先生が前に松竹座でやったのが『ストーミーウェザー』。その時は「春のおどりの中ではマトモな作品だと思うけど荻田先生的にはこれでいのか? 出来上がり納得いってないんじゃないか」と思った。でも今回の『Victoria!』は「これでいいのだ、松竹座をモノにしたのだ」じゃないでしょうか。そのへんのことは、
 

 
このツイートにつながるツリーで書いてます。で、これに書き足すこととして,

「松竹座でやることでよりOSKらしさも追究してる、シアターエイトーや近鉄アート館やブルックリンパーラーでの荻田先生の作品は、荻田浩一の趣味の世界を極限まで追究してる、松竹座公演ではもっと“松竹座で歌い踊るOSK”を見せようとしてる」

趣味の世界とかいうとなんか失礼みたいですが、けっしてそうじゃなくて趣味の世界をあれほど上質に表現する人はめったにいないわけで、私たちはいったいどれだけ「作者の手癖」や「思い込み」や「ひとりよがり」や「自分だけうっとりしてる」とこを見せられてきたかという話です。(ただ、荻田先生も小さなハコで趣味を追究している時に「うっとりした顔」がふと思い浮かぶことはある。円卓とか)

この『Victoria!』は、

「明るいのに暗い(冥い)」
「きびきびしてるのにぷよぷよ」
「乾いてるのにしっとり」
「しあわせと不安」

……と、相反するイメージが次から次へと出てきまして(いや、そういうモチーフが出るわけではなく、私が作品から感じた「オギーの芸風」です)、オープニングの、桜があふれるような場面もなぜか記憶に残ってるのは「なんか暗い」、でも陰気じゃないの。戦士が死んでいく場面の舞美ちゃんは、明るく出てきて「勝利の女神」なんだけど同時に「死神」で、でもまたすぐバクチ打ちを転がして遊んでる悪魔に変身して悪戯のかぎりを尽くす。いきなり行進曲の世界に突入するのも「そういうもんなの!」で納得するし、いろいろ見事。フィナーレのパレードも、今まで見たことないようなやり方でほんとに感心した。見せられてみれば「なんだこういうのもアリなんじゃん!」と思うのに、見るまで私には思いつけなかった。アイディアで負けた。

シアターエイトーの『ハイダウエイ』から感じていた、まるで関連のない場面を溶けたガラスや水銀でひとつにつないでいくような、荻田ワールドといっていいようなワザもこの松竹座ではもっと、湿り気がなくなって洗練されている。垢抜けてる。技術でも負けた。ぜんぶ負けた、荻田浩一に。なに張り合ってんだ。

中詰めとおぼしき『ハリハラ』というインドの場面、中毒性があるみたいで多くの人が「はりり……はりはら……はらら…」と酔い潰れていっているようです。私は前半はあんまりハマりませんが、赤と黄色染め分けのハリハラさん(その黄色と赤の色みがまさにこれ。これがタテに染め分けされてる)

ハリハラの衣裳(違)

(それ着てるのが王者みたいな桐生さんだ)がせり上がってくるところ以降はすげえと思う。セリが上がって盆がまわってそれが斜め位置で止まって終わるとことか。あの斜め位置なとこに荻田先生の美意識が……!

とはいえ見ていてドキドキして見ているだけで体脂肪を燃焼し体重が減り食事をしなくてもまったく苦にならない、という作品ではなかった、私にとって。でも『Victoria!』と2007年の『桜ファンタジア』くらべたら、作品として『Victoria!』のほうが「合ってる」とは思う。センスある建築家がきっちりと設計図を組み立てて建てた洋館で、新建材とかも使ってるのに安く見えないという、ほんとに「合ってる」作品なのよ。あらゆる部門で80点取ってるような。『桜ファンタジア』なんて、日本家屋をむりやりお神楽で2階建てにしておまけに洋館ぽい飾りをつけをしたトンデモ洋館に黒燕尾着た主人がどーん!といる、というようなモノですもん。部門によっちゃ30点ぐらいなとこもあったのに! なのにこれがすげえパワーでこっちの体脂肪が一秒ごとにずんずん減ったからなあ。『Victoria!』は「合って」いて「整いすぎてた」のかも。いや、『Victoria!』には大貴さんがいなかったから体脂肪が燃えないのか? でも大貴さんが出るとしたら荻田先生だってその時代にさかのぼるわけで、そしたらこういう作品にはなってないだろうしなー。

『Victoria!』、衣裳もださいやつがなくて、オープニングの桜色の燕尾にドレスも、フリルがくっついているのに気がつかないぐらいさりげなくて良い。今までの「やめてくれよそういうダサいヒラヒラは」と思わされていたアレはなんだったんだ、っていうぐらいすっきりしている。見慣れた衣裳も山ほど使い回されていますが、使い回すに当たって従来よくあったような「へんな飾りつけで差異を強調」がないので安くなくていいです。ただひとつ、衣裳で文句あるのは、カジノのシーンの桐生さん、赤いズボンなのはヘンだ〜〜。黒でいいよ黒で。

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